神田の町で甘味のお店を始められたきっかけは?
「当店は関東大震災の後、昭和 5 年に先代が本格的な汁粉屋をやろうと始めました。
当時は餅屋が大福などを売りながら傍らのスペースで甘味を召し上がれるようにした店は数多くありましたが、汁粉を専門に出す店は少なかったようですね。日本橋や浅草にはあったのですが神田のこの辺りにはなかったことから、この地で汁粉屋をやろうと始めたようです。この辺りは食事処も多く、近くのお店で鍋や蕎麦をお酒と共に召し上がった後、最後にちょっと甘いものでも・・・とお立ち寄りになるお客様が多かったようです。
うちは建物も製法も昔のままです。この建物も古いですが手入れさえきちんとしていれば、何とか保っていけるものと思っております。」
原料や製法で何かこだわっている点は?
「うちの餡は北海道産の小豆を使っています。その他の食材も国産のものを使用しております。決して国産とか外国産という事にこだわっているわけではありません。我々はいい原料を使用したいと思っているだけのことです。外国産だからどうのこうのという事では必ずしもないと思っております。
私は子供の頃から、炊く前の豆の選別作業をよくやらされていました。硬い豆を見つけ出してよける作業を思い出します(笑)。豆の良し悪しなど原料を見る目は親の背中を見て覚えたと言いますか。
当然のことですが既製品の餡を使ったりせず、豆を煮てあんこにするところから全て手作りでやっています。夜、水に浸けて朝炊き始め、あんこになるのは昼過ぎでしょうか。
うちはつぶし餡、こし餡、黒餡(沖縄の黒砂糖使用)があります。また、同じこし餡でも、まんじゅう用と汁粉用の餡に分かれています。
あん作りはやはり熟練した職人の腕と勘が必要だと思います。今は私の弟が 3 代目としてやっております。もう 40 年以上になりますかね。
餅は創業当時から使用している杵で搗いています。もちの甘味や香りが真空のものとは全然違いますから。」
四季折々、季節を感じるメニューを出されていらっしゃいますね。
「夏は氷とか白玉が中心で、寒くなる 10 月頃から春明け 5 月まではあわぜんざいやお汁粉がメインになります。
揚げ饅頭は通年お出ししております。昔のメニューによると、創業から 2 〜 3 年経ってから始めたようです。昔は寺の境内や参道に揚げまんじゅうを売る店があり手軽に召しあがれる甘味として人気があったようで、うちでも手土産にされたり、今の若い方ですとスナック感覚で食べながら街を散策される方もいらっしゃいますよ(笑) 」
鬼平犯科帳に登場する[しる粉屋]は竹むらさんをモデルにしたのでは、とも言われていますね。
「まあ、時代背景が違いますから・・・笑。池波先生はよくいらっしゃいましたよ。近所のまつやさんでお蕎麦と軽くお銚子1本くらいやってからこちらにお見えになりました。窓際の席にお座りになってあわぜんざいを召し上り、揚げまんじゅうを手土産にお持ちになって山の上ホテルで原稿を書くというのが先生のスタイルだったようですね。 」
老舗の暖簾を守ることについてどのようにお考えですか?
「創業から 80 年以上経ちましたが、暖簾や評判を守っていくプレッシャーはあります。ですから、やたらと新しい商品を開発するとか新しいことをする事は一切していません。時代が変わり世の中も変化しているので、創業当時と全く同じ原料を使用することは難しくなってきましたが、小豆に対する砂糖の分量など基本的に製法は全く変わっていません。食い物屋というのはとにかく、まずうまいものを提供するというのが第一だと思っています。美味しいもの出すということにはとてもこだわっております。それを気持ちよく召し上がって頂くということですね。 」
池波正太郎の著書より
池波正太郎著 『むかしの味』 より
神田・須田町の[竹むら]へ入ると、まさに、むかしの東京の汁粉屋そのもので、汁粉の味も、店の人たちの応対も、しっとりと落ちついている。
池波正太郎著『散歩のとき何か食べたくなって』より
神田連雀町の[竹むら]へ行くと、戦前の東京の、そうした汁粉屋のおもかげが、まだいくらか、名残をとどめていて、私には、それがうれしく、なつかしい。
椅子席の他に、入れ込みの座敷があり、ここへ坐って、酒後に粟ぜんざいを口にするのは、なかなかよい。酒後の甘味は身体に毒だというが、酒のみには、この甘味がたまらないのだ。・・・・・・・・・・しかるのち、竹むらの名代[揚げまんじゅう]をおみやげに包んでもらう。・・・・・・・・・いまも[竹むら]の粟ぜんざいの、香ばしく蒸しあげた粟と練り上げた餡のコンビネーションは依然、私の舌を楽しませてくれる。それに、この店の女店員のもてなしぶりのよさはどうだ。いかにも、むかしの東京の店へ来たおもいが、行くたびにするのである。 |